见えると见るの可能体见られるの区别は何ですか

来源:百度知道 编辑:UC知道 时间:2024/05/13 19:27:22

ここでは「见える」と「见られる」は、何かを见て目で感じる时に限定して取り上げます。まず、「见える」を使う例文を见てみましょう。

眼镜をかけると、新闻の字がよく见えます。
これは眼镜をかけることによって、字を见るという目の「机能」がよく働くようになったことを表しています。また、「目の前が一瞬见えなくなった」という场合も、何らかの原因で目の「机能」が一时的に働かなくなったことを表します。このように、目の「机能」を问题にする时には「见える」を使います。

次に、「见える」「见られる」どちらも使える场合を见てみましょう。

ここから海が见えます/见られます。
晴れると富士山が见えます/见られます。
これらの例文は、「见える」「见られる」のどちらも使うことができます。2.、3. は、「ここから」「晴れる」という条件を付加することによって、「见える状态」になることを表しています。ただし、両者のニュアンスは少し违います。「见える」は、意思に関わりなく対象が目に入ってくる状态だといえます。一方、「见られる」は、话者が「ここから」「晴れる」という条件を作为的にとらえ、可能性として「富士山を见ることができる」と判断したと考えられます。つまり、「见える」は自発的であり、「见られる」は可能性に重点が置かれています。

次の例文を见てください。

正月、日本では着物を着た女性の姿が见られます。
この文には「正月、日本」と条件がかなり限定されています。话者が作为的に条件を表し、その结果、そのような可能性や机会を持つことができる场合は、「见られる」のほうが自然です。逆にいうと、着物姿を见る条件として、正月や日本が欠かせないということです。しかし、正月や日本という条件をはずし、话者の眼前の様子を述べる场合は、「着物を着た女性の姿が见えます」と言っても不自然にはなりません。

さて、次のような误用をよく目にします。

(×)街のいたるところにゴミが见えます。
これは自発的なニュアンスを持つ「见える」をそのまま用いたことによる误用だと考えられます。また、発话意図から考えると「见られる」を用いてもしっくり