高分悬赏:请日语达人帮我翻译下面的一篇短文(二级课文)

来源:百度知道 编辑:UC知道 时间:2024/05/15 13:23:09
中国と日本では『麺』の概念が违います。
中国では『麺』は全ての『小麦粉食品』を指します。つまり、『饺子』も『シューマイ』も『ショーロンポー』も中国では『麺类』なのです。しかし、日本で『麺类』と言うと一般的には『ラーメン』や『うどん』や『そば』といった中国语の『麺条』に相当する一部の细长い麺食品という意味なのです。従って、日本でよく食べられている『ラーメン定食(ラーメン、饺子、チャーハン)』といったメニューは中国ではありえません。中国人の感覚からすれば、『ラーメン定食』は日本人が『ご饭とパンを一绪に食べる』くらいに滑稽なことでしょう。
中国では北魏から东魏の时代(6世纪前半)に『麺』が登场し、唐代初中期(7世纪)には饂饨(うどん)が発生、宋代(11世纪)が麺类の完成期となりました。これがやがて日本に伝わるわけです。
日本で『麺』としての记录が始めに登场するのは镰仓初期(12世纪)のことです。镰仓中期には水田での小麦栽培が始まり、『麺食文化』が一気に発展していくことになりました。室町(14世纪)时代になり『素麺』、『饂饨』という言叶が登场し、『そば切り』という言叶も登场、江戸时代に入り『関西のうどん、関东のそば』と言われるまでに発展しました。
こうして中国での麺文化の形成から、それが日本に伝わるまでを见てみると、中国にルーツがあるのは『ラーメン』だけではないことがわかります。ラーメンの别名『中华そば』などからラーメンだけが中国から伝わったと理解する倾向がありますが、全ての『麺类』の原点は中国の『麺条』にあり、それが日本へ伝わった后で『うどん』、『そば』、『ラーメン』へと派生していったと考えるべきなのかもしれません。
わたしは、明治末期から东京浅草にすでにあった中华料理店『来来轩』がラーメンを売り始めていたことからも、明治末期から大正にかけてのこの时期を『日本式ラーメンの起源』とするのが妥当と考えます。ちなみに、この时期は日清戦争(1894年)直后で、梁启超・康有为らの呼び挂けにより、清朝が大量に日本へ留学生を派遣した时期です。当时、中国人留学生を受け入れる港町である横浜と神戸に现在の中华街、南京街に相当する中国人社会が形成されたのは自然の流れだったと言えるでしょう。
『明治维新后、各方面で西洋に学

在中国和日本对于“面”的概念是不一样的。
在中国,“面”指的就是全部的面粉食品。换句话说,在中国饺子,烧卖,小笼包都是属于“面类”的。但是,在日本说到“面类”一般指的都是拉面,乌东面,荞麦面,而这些相当于中文里“面条”这类细长的面食类食物。与此同时,在日本人们经常吃的“拉面套餐(拉面,饺子,炒饭)”在中国的菜单上也是没有的。以中国人的感觉来看,“拉面套餐”就好像是日本人把米饭和面包一起吃似的,是一件很滑稽的事情。
在中国从北魏开始在东魏时期(6世纪前半期)“面”就开始有了,在唐朝初中期(7世纪)馄饨也出来了,在宋代(11世纪)可以说是完成了所有的面类食品。这些也已经传入了日本。
在日本,记录“面”这个词首次出现是在镰仓初期(12世纪),在镰仓初期开始在水田培育小麦,从此便迅速发展了“面食文化”。到了室町时期(14世纪),“素面”“馄饨”“荞麦面”这些词就开始出现了,进入江户时代就出现了这样的话“关西的乌东面,关东的荞麦面”并以此发展起来。
从中国的面文化的形成到传入日本为止,以此来看我们就可以知道在中国面食的根本不仅仅是拉面。从拉面的别名“中国荞麦面”来看,我们的理解就更倾向于仅拉面是从中国传入日本的,但是,所有的“面类”的起点是中国的“面条”,这些也许就是传入日本之后渐渐派生出“乌冬面”“荞麦面”“拉面”这样的词语。
从明治末期开始在东京浅草有一家中国饭店“来来轩”,我是从这里卖拉面开始逐渐思考把明治末期到大正这段时期当做“日本拉面的起源”是适当的。顺便一提,这段时间正好是中日甲午战争(1894年)后,以梁启超,康有为等人的呼吁,清朝派遣了大量的留学生到日本。当时,在横浜和神户的港湾附近的街区接收了许多的中国留学生,那里相当于现在的中华街、南京街,可以说造成了这样的中国人的社会是自然的形成吧。
当时,在东京组建中国同盟会(1905年)的孙文(孙中山)也这样说,“明治维新之后,日本在各方面都向西方学习,对于中国的味道也做了独特的调整。因此,在东京也渐渐有了中国餐馆,喜欢这个味道的人也渐渐变多了。”孙文(孙中山)在1910年领导了辛亥革命成功地推翻了清朝,直到创建了中华民国,也可以说日本的拉面诞生也许是“中国民主化运动的副产物”。

大概就是这样,不是用翻译机的,楼主慢慢看~~翻得较